安倍川花火大会

花火について

花火の歴史

天文12年(1543年)種子島へポルトガル人によって鉄砲が伝来された。 爆薬物も製法も併せて伝えられ、軍事用として鉄砲をはじめ大筒(大砲)や、信号用のノロシ時代が続き、関ヶ原の役や天草の乱も終わり、徳川泰平期にはいってくると、それは観賞用花火へと移るのである。
慶長5年(1600年)頃、細川幽斎の家臣に稲富(稲留ともいう)を伊賀守直家という砲術家があり、細川家を追放される出来事があり、その技術を見込まれて家康に仕えたが、 またまたのスキャンダルで尾州家お預けとなり、尾州家の砲術師範として貢献したということである。
慶長17年(1612年)に足助八幡社へ「扇的打図」という花火に関する偏額を、「尾州藩稲留派先生当国住岩神村沢田四郎衛門行年78才」と記して献納されており、稲富伊賀守直家の門人が、 花火技術を守った資料といえるであろう。
超えて慶長18年8月6日、江戸城二の丸で英国王の使者来朝に将軍秀忠が国史歓迎の花火を諸大名とともに見物したという記録もあり、花火の製造があちらこちらで行われたことがわかる。 これは徳川家康が征夷大将軍となり江戸開府より10年目、鉄砲伝来より70年後のことであった。
それから更に120年後の亨保18年5月28日には、江戸両国の川開き花火がはじまり、それからずっと花火が作られ、打ち上げられ、事故がおきて禁令がだされるということを繰り返したようで、 慶安元年(1648年)、寛文5年(1665年)、寛文10年(1670年)などにも花火禁止令がだされ、江戸中では、花火は全く行われないようになり、暫次地方へ移っていったとある。
石見国(島根県)浜田城主から岡崎城主になった本多中務大輔忠粛が着任の明くる年の明和7年(1770年)11月に領内一統に花火など無用の事と禁令をかたくしたが、長くは続かなかったと記事記述されている。
明治初年には、奥殿藩の萩野流砲術皆伝の奥殿町の中根泰蔵が花火一光流をあみだし、同じ奥殿の加藤滝蔵は熊野流(稲留流の分派)をつくり、細川町の長坂専海流の始祖として花火を勃興させた。
これらの流派は、各郡には大勢の門人をもち、前に記述した沢田四郎右衛門という稲留流の教えもありこの地方で花火師が続ぞくと養成されたようである。
武田家滅亡後、徳川方から武田方へスパイして得た技術ありやも知れぬが、文政12年(1829年)8月の「武田流火術証文の事」という古文書が現有しているのも、これらの消息を物語る資料であろうと思われる。
結論として各地方の花火は徳川譜代の若者たちが、砲術・火術の秘法をまもり、藩とか天領という幕府直轄地や旗本領という狭い枠の中や、時には枠外の僻地で命脈を保ち、年に一度の晴れの舞台として情熱をたきらせつつ、 花火を今日に伝え、貴重な文化遺産となったものということが言えるであろう。


戦後、静岡では昭和22年、戦後に荒廃した市街地と住民の復興精神の高揚を計り、復興祭なる市民行事が行われた。
静岡大火や戦災でなくなった人達の供養と合わせて市西部の商店街の発展を望み昭和28年8月に、静岡西部発展会により企画され、第一回東海花火大会が行われた。

現代の花火

独創的な花火を、発明した名人ばかりで構成する任意団体がある。「日本煙火芸術協会」加入は、会社のでなくあくまで個人、入会の条件は厳しく、会員権の世襲はなし、日本花火界を常にリードしてきた団体です。
バブルの時は、コンサート付き花火大会などが多かった不況になると花火主体の本来の姿に戻り、かえって忙しい不況の時ぐらい、夏の夜の景気づけは派手いやりたいという思いがあるようだ。
伝統的な花火では、完全なまん丸に近く、花弁が真っすぐで均等なほど難しく、名人でもいいものは、年に一・二発位しか作れないという。
ところが最近、花の芯が三重で全体として、四色に別れて見える三重芯が開発されて、観客の度肝を抜いた。
完全な円と一瞬の消え際にこだわるベテランがいる一方で花火界気鋭の若手は、惑星・蝶・魚など、さまざまな形の創作花火を研究開発して、円破壊運動を進めている。
単発の打ち上げ花火にかわって、大会の主役についたのはスターマインという連発式の花火。導火線の長さを微妙に調節して、数十・数百の筒から連発して打ち上げる。
最近の花火大会は、大玉復活の傾向があると思う。
花火の大きさは、一号・二号と、数字の大きさほど玉も大きい。十号が一尺玉でこれ以上が大玉、一時大玉志向は下火になったが、尺玉はやはり空気の震えが違う。音も花火の重要な要素だということが再認識されてきた。
円破壊運動が定着した、日本の花火の理想は長い間、真円形とされていた。
最近、若手花火師の間で伝統的な真円形を破壊運動が進み近頃では、ベテランにさえ浸透してきた。
今や、長やタイ・タコ・ヤシ・土星などある程度円形に近い形のものならば、ほぼ何でもできる。さらに完全な星形などの形からさらに離れたものをめざす花火師が出ると思われる。
江戸時代は、「和火」と言われるオレンジ色の花火しかなかった。明治時代、塩素酸カリウムで、赤や緑が出せるようになり、さらに十年ほど前には、チタン合金で綿(金と銀の中間色)も出せるようになった。
色の開発は年々盛んになっており、色を出す薬剤の配合は花火師たちの秘中の秘。パステルカラーのピンクや黄緑などさらに柔らかい中間色が出せるようになるか注目されているという。

花火の名称

安倍川花火大会も昭和28年に開催してから本年で65回を迎えます。 毎年多くの方々に観賞していただいておりますが、プログラムに記載してある打ち上げ花火の玉名(花火の名称)について、ここに簡単に説明します。
まず、プログラムの中で一番多く目につくのが「菊」という名前です。聞くというのは、松炭(松え作られた木炭)の光芒(光のほさき)を残すのが植物の菊の花に似ているところから菊の名が付いています。
例えば、「菊先紅降雪」(きくさきべにこうせつ)は、先ず玉(花火玉)が音とともに炸裂して開くと菊ができ、その先が紅(赤色の火)にんり、次いで降雪(アルミニューム剤が燃える銀色)になり、 雪が降る白さを言っています。また、降雪を銀乱ともいいます。

打上げ花火の高さ・大きさ

大きさ

同じものでは、「菊先緑降雪」、「菊先桔梗(青)降雪」などがあります。
またよく似たものえは、「菊先紅光」(きくさきべにひかり)があります。降雪と同じ最後に光る(アルミニューム剤が緑色をだして燃える)となります。

大きさ

花火で二重に見えるのが芯入りの花火です。例えば芯(花火の中の中心となる内側の円の部分)に桔梗星(青色の火)外側が紅と二重にしたもので図に示すと、

大きさ

桔梗芯菊先降雪(ききょうしんきくさきこうせつ)の呼び名がこれです。
次に芯が桔梗(青色)から光(アルミニューム剤が緑色)に変化する花火があります。これを「変芯菊先紅降雪」(へんしんきくさきべにこうせつ)といいます。
なお、花火玉が開花する前に筒口より小さな花が咲きながら行くものを「小花村」といい、アルミニュームの花芒を引いていくものを「木付」といいます。 同様に子供花火の乱玉と同じものですから下から打上げていくものを「乱玉付」といいます。
これら筒口から打上げられ親玉が開花するまでの間、出るいろいろなものを総称して曲付、または曲導付といいます。